沢田サタ レストランと 夫の沢田教一 安全への逃避 写真とその後

 

沢田サタさん自宅のレストランで

沢田教一 安全への逃避 写真とその後のちょっといい話

徹子の部屋 2017年8月15日

ゲストは沢田サタさん

戦場カメラマン沢田教一さんの奥さんで
現在、青森県の弘前市で。「グルメさわだ」というレストランを営まれています。

  • 夫の沢田教一の残した「安全への逃避」 写真とその後の物語とは
  • 沢田サタさんの営むレストランについて

調べてみました。

戦場カメラマンの妻が語る“戦争と平和”

夫の沢田教一さんは1970年10月28日
34歳の若さで、戦場で命を落としました。

夫の沢田教一さんが伝えたかったのは何だったのでしょうか?

そして、夫を失って46年、
現在92歳のサタさんを支え続けたものとは?

沢田教一さんが戦地で亡くなって47年近い年月が流れようとしています。
近隣の北朝鮮では核開発が行われ米国と一触即発の状態。

そして、中東やアフリカ 南米などでも
テロや戦争や地域紛争の地域があります。

いつ、我々も戦争に引きづられてゆくのか不安の多い時代を向かえ
戦争を経験した沢田サタさんの語る戦争の悲惨さを

そして戦地で亡くなった
夫の戦場カメラマン沢田教一さんの
残した写真が我々にもう二度と戦争をしてはならないと訴えかけてくるようです。

安全への逃避 写真

『安全への逃避』

こちらがピュリツァー賞を受賞した
ベトナム戦争中、戦いに巻き込まれる市民の姿を捉えた
沢田教一さんがベトナム戦争を撮影した『安全への逃避』

1965年9月6日
ベトナム中部クイニョン郊外ロクチュアン村で撮られた
写真です。

米軍によるナパーム弾の爆撃で一帯は焼け野原
しかし写真に写る3人の子どもは健在だったそうです。

そして幼子を抱えてこの川を渡った母親2人は、
激烈な戦争を生き延び、戦後、まで生き延びて亡くなったそうです。

安全への逃避 その後の物語とは

この、ピュリツァー賞を受賞した『安全への逃避』で
写真家として沢田教一の名は一躍知れ渡ります。

沢田はその後、香港支局に移ったのち、再びベトナムに戻り
カンボジア郊外での襲撃による突然の死を迎えてしまうのです。

「安全への逃避」その後に物語があります

夫人の沢田サタさんは89年11月に「安全への逃避」の舞台となった
ベトナムのロクチュアン村を訪れでいます。

そして生き延びた写真の3人と対面したそうです。

その中の一人のアンは「川からはい上がったら、
サワダさんはいちばん幼かったフエの目を拭いてくれたんだ」
などとサタに当時を語ったそうです。

在りし日の沢田教一さんと「安全への逃避」

沢田サタ レストラン

沢田サタさんは、青森県弘前市での自宅で
客をもてなすという面白いスタイルの「レストラン」を営まれているそうです。
平成11年12月11日

上記情報は
平成11年の情報なので現在は定かではありません。

「グルメさわだ」オーナー・故沢田教一夫人 沢田 サタさ

夫の沢田教一さんは生前妻のサタさんに
「戦争が終わったら、一緒に平和なベトナムの写真を撮りに行こうよ」
と言っていたそうです。

沢田教一さんが好きだったのは戦場のベトナムではなく
のどかで平和なベトナムの田園風景だったに違いありません。

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